右派弁護士の備忘録

世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である。

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交戦権とは

前日,南出氏の交戦権理解を批判したが,
確かに,戦後の憲法学者の交戦権理解が,
抽象的かつ観念的なものになってしまっていることは,
事実である。
その点で,南出氏の交戦権理解は,理由がない分けではない。
例えば,アメリカ憲法の話になるが,「戦争権限(war power)」について,以下のように考えられている。

「宣戦の権限を有する以上,終戦を有する権限も,また,連邦議会に存する。第一次世界大戦の後,ヴェルサイユ条約が上院の同意を得られなかったため,ドイツとの戦争終結の方法に関して疑問を生じたが,両院の合同決議に大統領の署名を得て,正式の終戦を迎えたのであった」(註解アメリカ憲法(酒井書店,1993)66頁)。

「宣戦の権限+終戦を有する権限+統帥の権限=戦争権限=交戦権」との理解も,不可能ではない。
戦後の憲法学者が「戦争は起きない」ことを当然の前提として,戦争権限等の概念を十分に検討してこなかったから,
南出氏につけこまれるのだ。左翼学者の責任だろう。
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南出喜久治『日本国憲法無効宣言』(ビジネス社,2007)の致命的誤り

1 帝国憲法75条の指摘について

氏は,「旧無効論とはここが決定的に違う」(25頁)というタイトルをつけた上で,「私の無効論と過去の無効論を比較すると,決定的な違いは何かといえば,私の場合は帝国憲法第七五条に抵触する故に無効だと言っている点です」(30頁),「今までの無効論に七五条を補強する必要がある」(31頁),「最近になって谷口雅春先生の講演録を改めて調べてみたら,あの当時にも無効であることの根拠として,私とは表現は異にされるものの,七五条的なことをおっしゃっていることを発見しました」(29頁)等と主張している。

しかし,この主張は完全に誤っている。菅原先生,井上先生,相原先生等は,当然,この点を指摘している。南出先生は,無効論の大家の本を一冊も,1頁も読んでいないのだろうか。実に不真面目な態度ではなかろうか。以下,該当部分を引用する。

「時期の問題」-「帝国憲法七五条に,摂政時代に憲法改正を禁じたのも,(中略)ひとしく国家の状態が,正常かつ平穏でなければ,憲法の改正を,なすべきではないという,憲法法理の大原則を示したものにほかならぬ」(菅原裕『新装版 日本国憲法失効論』(国書刊行会,平成14年)31-32頁)。

「憲法変改の必須要件としての自由意思」-「例えば,帝国憲法はベルギー憲法と共に,摂政を置くの間,典憲の変更を禁じ,元のウルテンベルヒ憲法は摂政期間中になされたる改正は,その任期中に限り効力を有する旨の明文を有する。(中略)摂政を置く場合に於てすらそうである。殊に統治者の意思が全面的に欠落する「占領」中は「勿論」のことである」(井上孚麿『憲法研究』(政教研究会,昭和34年)173頁,180頁。現代仮名遣いに変更して引用),「改正の時間的制約」-「明文を挙げれば,大日本帝国憲法は,摂政期の改正を禁じ,(中略)。各国の現行法体系中最高次のものが,憲法であることはいう迄もないことであるから,これも,占領中の憲法変改の禁止を命じたものであることは明かである」(同『現憲法無効論』(日本教文出版,1975)93-94頁。現代仮名遣いに変更して引用)。

「改正の時期」-「帝国憲法が摂政を置く間は憲法の変更を許さぬのも,(中略)すべて,国家の状態が正常且安泰で,国民の意思が平穏であり,国家の統治意思が自由でなければ,憲法の改正はすべきでないという,憲法法理の根本原理を例示的に示したものに外ならない」(相原良一『憲法正統論』(展転社,平成8年)53頁)。

このように,憲法無効論の大家は,既に帝国憲法75条を指摘している。全員が指摘している。これらの著作をきちんと読んでいれば,「私の無効論と過去の無効論を比較すると,決定的な違いは何かといえば,私の場合は帝国憲法第七五条に抵触する故に無効だと言っている点です」(30頁)等とは,恥ずかしく言えないはずである。「今までの無効論に七五条を補強する必要」(31頁)など,これっぽっちも存在しない。「最近になって谷口雅春先生の講演録を改めて調べてみたら,あの当時にも無効であることの根拠として,私とは表現は異にされるものの,七五条的なことをおっしゃっていることを発見しました」(29頁)との主張など,「谷口先生の前に菅原先生,井上先生,相原先生の本を1頁でも読んだら?」とツッコミを入れたくなる。不勉強も甚だしい。

氏と比較して,小山常美氏は,大家の過去の著作を十分に読んだ上で理論を構築しており,信頼に足る(過去の著作が何であるかについては,同氏『憲法無効論とは何か』,『「日本国憲法」無効論』の参考文献を見よ。)。氏は,旧無効論を敵視しているが,そもそも旧無効論の著作を読んだ気配は窺えない。YouTube等で動画を拝見したが,あまりにも独善的で,かつ,保守派にありがちな傲慢な態度(「俺だけが正しい!お前らは全員間違ってる!」といった態度)に満ち溢れている。態度や言い方の問題は兎も角として,勉強不足は困ったものである。保守主義者が備えるべき「謙虚さ」の欠片もない。「傲慢さ」が「不勉強」を招いた典型例といえよう。


2 旧無効論の法的安定性について

氏は,旧無効論について,「今までの無効論でいえば一種の革命のようなことになり,これまでの裁判にしても法律にしても一体どうなるのかという,法的安定性の部分でかなりの批判がありました。それらの批判に対して旧無効論はひとつもまともな回答ができていない」(32-33頁)等と主張している。

しかし,この主張も完全に誤っている。菅原先生,井上先生,相原先生,いずれも,法的安定性に配慮し,現行憲法の無効が確認されるまでは,有効であると「推定」されるなどとして,過去の公法行為が無効にならないよう理論武装している(菅原103頁以下,井上・憲法研究240頁以下,331頁以下,井上・現憲法無効論295頁以下,相原158頁以下)。井上・憲法研究は,わざわざ「第三章 杞憂」(憲法研究331頁以下),「復原についての杞憂」(現憲法無効論295頁以下)という章を設けて,法的安定性が撹乱されるのではないかとの懸念を「杞憂」に過ぎないと念を押しているところである。

確かに,この「適法性の推定」理論の妥当性については,議論の余地があるだろう。しかしながら,南出氏の主張する「無効行為の転換」理論が一見して優れているとは思われない。この点,氏は,占領管理法説に対して,「憲法として無効なのに,なぜ法律として有効なのか」(31-32頁)等と批判しているが,これはブーメランとなって自分に返ってくる。すなわち,「憲法として無効なのに,なぜ講和条約として有効なのか」,と。講和条約に転換するより,占領管理法に転換するほうが,「むしろ自然」ではないだろうか。法的安定を図る手段は一つではないのであり,無効行為の転換理論が適法性の推定より優れていると判断する必然性は全くない。無効の遡及効を制限する手法は,たくさん存在する。

例えば,無効の遡及効を制限した例として,非嫡出子の相続分の規定の違憲決定が存在する。同決定は,次のように判断している。「本決定の違憲判断は,Aの相続の開始時から本決定までの間に開始された他の相続につき,本件規定を前提としてされた遺産の分割の審判その他の裁判,遺産の分割の協議その他の合意等により確定的なものとなった法律関係に影響を及ぼすものではないと解するのが相当である」(最高裁平成25年9月4日決定)。これを応用すれば,「現行憲法無効判断は,帝国憲法改正時から本判決までの間になされた国家行為につき,現行憲法を前提としてされた立法,行政,司法等の国家行為に基づき確定的なものとなった法律関係に影響を及ぼすものではないと解するのが相当である」等と考えることもできるのである。

従って,井上先生が主張したように,法的安定性云々は,「杞憂」に過ぎない。また,法的安定性を確保するための手段は複数存在するのであって,無効行為の転換理論が格別優れている訳ではない。

それにしても,「今までの無効論でいえば一種の革命のようなことになり,これまでの裁判にしても法律にしても一体どうなるのかという,法的安定性の部分でかなりの批判がありました。それらの批判に対して旧無効論はひとつもまともな回答ができていない」(32-33頁)などとは,よく言えたものだ。本当に南出氏は旧無効論の大家の本を1頁でも読んだことがあるのか,疑念は増すばかりである。


3 無効理由について

何度も引用するが,氏は,「私の無効論と過去の無効論を比較すると,決定的な違いは何かといえば,私の場合は帝国憲法第七五条に抵触する故に無効だと言っている点です」(30頁)と主張している通り,数ある無効理由の中でも,特に帝国憲法75条違反を強調している。しかし,この無効理由は,八月革命説に対する攻撃としては,実は弱い。むしろ,「自由意思の欠如」こそ,理由の第一に挙げるべきであろう。なぜなら,帝国憲法75条違反は,「改正」を無効にする力しかなく,「旧憲法の破棄,新憲法の制定」を無効にすることができないからである。これは,八月革命説がどのように出て来たのか,考えれば直ぐに分かる。

八月革命説は,憲法改正の論点の一つである,「憲法改正限界説」を当然の前提として,これを克服するためにでっち上げられた。この点,八月革命説は,「現行憲法は明治憲法の改正としては無効」であることを正面から認めた上で,「改正としては無効であるが,明治憲法の破棄・現行憲法の制定としては有効である」とする理論なのである(その上で,「改正」は「形式」に過ぎず,「実質」は「旧憲法破棄・新憲法制定」である,と主張する。)。なので,八月革命説に対して,いくら「改正としては無効である」と主張しても(帝国憲法75条違反の強調はこれに該当する。),暖簾に腕押しなのである。むしろ,「明治憲法の破棄・現行憲法の制定としても無効である」との理論を構築する必要が存在する。では,その理論は何か。これが「自由意思の欠如」論である。小山氏の該当箇所を引用する。

「無効な理由は,日本政府であれ,国民代表としての議会であれ,日本側に一貫して自由意思がほとんど存在しなかったということで尽きている。あらゆる法律行為は原則として行為主体に一定の自由意思があって初めて有効なものとなるし,独立国の憲法を作る行為ならば尚更,その国の自由意思が基本的に存在しなければならない(筆者注:意思主義)。だから,日本側の自由意思の欠如を直視すれば,細かい法的議論などするまでもなく,「日本国憲法」は,少なくとも憲法としては無効である」(小山常美『憲法無効論とは何か』(展転社,2006)120-121頁)。

憲法自律性の原則に結び付けることも可能である。この原則によれば,憲法の場合,一般の法律等と比較して,「より自由意思を大切にしなければならない(誤解をおそれずに言えば,自由意思の違反による無効の度合いは,一般の法律等に比較して,更に大きい,という事。)」。そして,この原則は見事に破られた。

「自主的な選択的受容過程であった明治憲法の制定の場合とは異なり,日本国憲法の制定は,占領管理体制の下におけるいわば強いられた「憲法革命」というべきものであった。このことは,(中略)マッカーサー草案の提示以後の憲法草案の起草過程だけでなく,憲法制定会議における審議過程においても,同様に当てはまる。したがって,現行憲法の制定過程は,そういうものとして法的な瑕疵を帯びており,しばしば引き合いに出される憲法自律性の原則(芦部信喜)は,むしろ破られたとみるのが正当な見方であろう」(大石眞『憲法講義Ⅰ(第2版)』(有斐閣,2009)54頁)。

「自由意思の欠如論」,「憲法の自律性の原則」は,「憲法の改正」だけではなく,「旧憲法の破棄・新憲法の制定」行為にも適用される。従って,八月革命説の「改正としては無効であるが,旧憲法の破棄・新憲法の制定としては有効」との言説に対して,「いや,旧憲法の破棄・新憲法の制定としても無効だ」と再批判することができる。これに対し,帝国憲法75条違反を強調しても,「だから,改正としては無効と我々も認めている」と開き直られてしまうと,対処できない。要するに,改正の無効事由をどれだけ並べても,八月革命説は痛くも痒くもないのである。

有効説には,以下のとおり(1)から(4)が存在する。この点,(1)から(3)までの理論は,全て自由意思の欠如,憲法自律性の原則で論破できる。問題は,(4)である。もっとも,(4)については,そもそも,自由意思の欠如,憲法自律性の原則違反は,極めて重大な瑕疵であって,取消事由に過ぎないとは考えられず,無効事由に該当すると考えるべきである(「取り消し得べき憲法制定行為」なるものは,なかなか観念し難いように思われる。)。そして,無効行為に法定追認は適用されない(民法ですら,そのように考える学者が多い。消極的な法定追認は認められず,積極的に新たな行為を改めてすべきと考えられている。ましてや,憲法制定行為について,無効行為の法定追認を肯定すべきではない。)。法律論において「取り消し得べき憲法制定行為」の存在を認めた上で,日本側にもある程度自由意思が存在したと事実認定をして,はじめて「検討に値する有効論」となる。もっとも,最後に何を以って法定追認事由とするかの問題は残る。

(1)憲法改正無限界説(結論:改正としては有効)
(2)八月革命説(改正としては無効であることを前提に,旧憲法の破棄・新憲法の制定として有効)
(3)主権顕現説(帝国議会の審議過程で国民主権が次第に確立した)
(4)法定追認説(本来は瑕疵ある制定行為であったが,一定の憲法規定の履行行為によって完全な効力をもつにいたった(大石前掲55頁参照))


4 交戦権について

そのほか,YouTubeの氏の動画を見ると,しばしば「交戦権を放棄している現行憲法でサンフランシスコ講和条約を締結できない」,「帝国憲法の講和大権に基づいてサンフランシスコ講和条約は締結された」等と主張している場面がある。これも無理があると思わざるを得ない。

そもそも氏の憲法解釈(現行憲法の交戦権の中には,宣戦→統帥→講和の権限が全て含まれている。)は,絶対的なものではない。例えば,次の記述を読んでほしい。

「交戦権の意味については,国家が戦いを交える権利と解する見解(広義説)と,国際法上,交戦国に認められる権利,即ち,敵国領土の積極的攻撃,船舶の臨検・拿捕(だほ)の権利や,占領地行政に関する権利等を指すとする見解(狭義説),その双方を含むとする見解(両者包含説)がある。(中略)本書の立場では,1項は一切の戦争を否定する趣旨なのであるから,国が戦争を行う権利は,既に1項によって否定されており,2項後段はその繰り返しになるからである。1項を上記のように解し,かつ2項後段に独自の意義を与えようとすれば,2項後段の交戦権の意義は,狭義説のように解さなければならない。(中略)1項で一切の戦争が放棄されているのであるから,わが国が交戦国になることはありえないのであるが,2項後段は,交戦国になった場合に認められる諸権利の否定という形で,1項の一切の戦争放棄を表現しようとしたものなのである」(井上英治『ロースクール憲法(上)』(辰巳法律研究所,2003)147頁)。

このように,交戦権の意味には,狭義説と広義説が存在するのであり,狭義説を採用すれば,氏の理論は成り立たない。また,広義説を採用しても,講和条約締結権まで含める見解は存在しない。当然だろう。平和主義者の連中にとっても,「講和条約は9条違反だ!」等と言うはずがない。自分に都合がいいからといって,わざわざスーパー広義説(講和条約締結権まで含む。)を採用する意味はないと思う(卑怯とも言えるだろう。)。

また,氏と同様に考えたとしても,つまり,「交戦権の中に講和条約締結権が含まれており,現行憲法9条2項はこれも含めて交戦権を放棄している」と考えても,「サンフランシスコ講和条約は現行憲法に違反して無効」になるだけであって,到底「帝国憲法上の講和大権に基づいて締結された」などとは言えない。「交戦権は否定されている+講和条約締結権は交戦権の中に含まれる→講和条約締結権は否定されている→それなのにサンフランシスコ講和条約が締結された」,この議論の帰結は「サンフランシスコ講和条約は憲法違反である」であって,まさか「帝国憲法は生きている」ではあるまい(「帝国憲法下なら憲法に違反しない」とは言えるであろうが)。

氏としては,「サンフランシスコ平和条約は憲法に違反せず有効である」という誰も争えない事実を根拠に,「現行憲法ではサンフランシスコ平和条約が無効になってしまうぞ!」と脅したつもりなのだろうが,「いやいや,私は交戦権の意義をそのように考えていませんから」とか,開き直って「先生のおっしゃるとおり!サンフランシスコ平和条約は,平和条約としては無効なんですよ」とか反論されると,一気に説得力を失う。この意味で,氏のこの議論は余り意味がない。

(以上)

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日本憲法の基本主義(美濃部達吉博士)読書ノート(1)

□国体:「歴史的に発達し構成せられた日本の国家生活の最も重要な特質」(3頁)
    →①歴史的特質,②倫理的特質(×法律的観念)
  □「国家の体制(国家の法律的組織の基本)」については,「国体」ではなく,「政体」という用語を使用すべき。


□主権:穂積説 :①最高性,②不可分性(単一性,唯一性),③無制限(万能性)
    美濃部説:「統治権」…統制力(支配権)
         ※「統治」 …「一定の国土人民を統御し支配すること」(27頁)
          「統治権」…「一定の国土人民を統御し支配する(統制力,支配権)」
         ・統治権は,上記①~③の性質を保有していなければならないものではない。

□美濃部博士の「法治主義」,「法の支配」,「法実証主義(=「悪法も法なり」)」
・統治権(=統治の権利)
 「統治権は国家の権利であり(=国家法人説,筆者注),而して凡て権利は法の承認に依り効力を有するもので,法の下に存するものである。統治権も亦国法及び国際法の下に其の効力を有するもので,其の承認する限界内に於いてのみ存することは,統治権が権利たることに基づく必然の性質である。」(32頁)
 「統治権は,(中略),決して国家の任意に如何なる事でも為し得るものではない。それは,行政権及び司法権に付いては言を待たない所であるが,唯立法権に付いては,動もすれば立法権万能の思想が行われて,法律を以ては如何なる事柄でも規定し得ないものは無いとする者が有るけれども,それは唯立法権の上に立って之を監督すべき権力なく,如何なる悪法が定められたとしても,何人も其の悪法なるが故を以て其の効力を否定するを得ないというに止まる。決して立法権が其の本質に於いて如何なる事をも定め得るものであるというのではない。立法権と雖も国家の目的に於いて其の必然の限界を有するもので,其の定むる所の実質は必ず国家の目的に適合するものでなければならぬ。唯何が最も能く国家の目的に適合するかに付いて,一定の法則を定むることが不可能であり,随って立法者の自ら認定する所に任されて居るというに止まるのである。」(33,34頁)
・統治の権能
 「主権が君主に属するというは,決して統治の権能が無制限に天皇に属することを意味するものではない。(中略)憲法の条規に依って制限せられて居るもので,即ち此の意義に於いての所謂「主権」とは統治の権利の意味でないと共に,又無制限の権力の意味でもない。統治権を総攬すとあっても,それは憲法の制限の下に統治の一切の権能が天皇属することを意味するものに外ならぬ。」(47,48頁)
・両者
 「要するに,我が憲法に於ける君主主義は,決して君主が統治の権利主体であるとするものでもなければ,君主が無制限の権力を保有するとするものでもない。我が憲法に於ける君主主権とは,国家の統治権の発動が君主に其の最高の源泉を発し,君主は何者からの委託に依るのでもなく,又何者を代理するのでもなく,専ら皇祖皇宗の遺烈に由り歴史的に此の力を固有せられ,而して憲法の条規に従い其の制限の下に此の力を行わせらるるものであることを意味するのである。」(51頁)

□美濃部博士の国家法人説(「国家=権利/君主=権能)
  □「統治権」 vs 「統治の(総ての)権能(×権利)」
   ・「統治権」  =国家(法人それ自体)
   ・「統治の権能」=天皇(法人の最高機関)
    □私見:株式会社   =国家
        株式会社の権利=統治権(=統治の「権利」,×無制限)
        代表取締役  =天皇
        代表権    =統治の「権能」(×無制限)
        定款     =帝国憲法
  □国家法人説のまとめ
   ●「統治の権利(=統治権)/統治の権能」,「私/公」,「国家,天皇」
   ・「権利」=「自己の目的の為に」認められて居るもの(43頁)。
   ・「統治権」は,「一定の国土人民を統御し支配する「権利」,支配権,統制力」である。
   ・天皇は,国土人民の為に日本国を治めているのであり,自己の(目的の)為に日本国を治めているのではない。
   ・統治権(=統治の権利)を保有しているのは,「天皇」ではなく,「国家」である。
   ・統治の「権能」(=統治権を発動させる力,統治権を動かす権能)は,「天皇」に帰属する。
   ・統治の権能は,「固有」のものである(=何者かの「委託」によるものでも,何者かを「代理」するものでもない。)。
   ・統治権も,統治の権能も,憲法による「制限」を受ける(=無制限ではない。)
   ・帝国憲法第4条の「統治権」は,上記の「統治権(=統治の権利)」を意味するものではなく,「統治の権能」を意味するものである。
     □批判(私見)
      ・国家を「権利」=「私」に結びつけるのは妥当ではない。国家も国土人民の為に自分自身を治めている。そもそも,「権利=私=自己の為に」,「権能=公=国土人民のために」という図式それ自体に疑問が残る。統治権が天皇に帰属しているからといって,天皇が自己の(目的の)為に統治権を行使していることにはならない。
      ・統治の「権利」と統治の「権能」の区別が曖昧である。「統治権は国家に帰属するものの,これを発動させる権能は天皇に帰属する。」という見解と「統治権は天皇に帰属し,これを発動させる権能も天皇に帰属する。」という見解を戦わせる意味がよく分からない。議論の実益が有るとは思えない。
      ・「天皇が国土人民の為に日本国を治めてきた。」ことの表現として,国家法人説のみがこれに成功しているとは思えない(→天皇主体説が直ちに家産国家思想と結びつく訳ではない。)。

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帝国憲法大意を読み解く3

この本を読んで一番戸惑う部分は、国務大臣が副署を拒否できない、という部分だろう。これだと、如何にも専制君主のようだ。
しかし、現実にそのようなことはなかった。天皇はあくまで、「裁可者」であり、「・・とすることにしました」という臣下の上奏に対して、「よろしい」と裁可する。従って、「副署を拒否出来るか」という問いも、現実にはあまり論議する意味がない。天皇が何か命令を立案して、「副署せよ」などという事態は、全く存在しなかったし、想像もできない。あくまで、臣下が命令などを立案して、陛下の裁可を得、国務大臣が副署するのである。
このように、清水澄博士の「国務大臣が副署を拒否できない」という部分は、建前、形式と考えておくべきかもしれない。ただ、この解釈が、天皇を政治利用し、勝手に天皇の名で命令などを作り、「国務大臣の分際で副署を拒否するのか」などと言う事態を招く恐れがあることは事実だ。
だから、私は、責任の所在を明白にするためにも、副署は拒否出来る、と考える。副署を拒否したとして、天皇の統治は毫も揺るがない。副署の拒否は、臣下内部の意見対立に過ぎない。 バジョットも言うように、君主には、「警告する権利」「激励する権利」「相談される権利」があり、これによって国政に事実上の影響を与えることができるのである。
なお、清水澄博士は、「国務大臣が副署を拒否した場合、詔勅に副署は不要」とまで言っているわけではない。

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憲法の意義

一番素晴らしい定義は、阪本昌成先生の、

「規範的意味の国制」

だ。そもそも、constiutionは、国制を意味し、その中でも、規範的意味を有するものをいう。国体と定義することも可能であるが、国体には文化的意味も含まれてくるので、相応しくないだろう。
良く、憲法というと、人権規定が論じられる。司法試験でも、論文ではほぼ人権が出題される。しかし、憲法をまなぶということは、本来日本の国制(規範的意味の)を学ぶことであり、人権が全面的に押し出されるのはおかしいと思う。
国家の意味、法の意味、憲法の意味、立憲主義の意味、法の支配の意味、主権の意味、自由の意味などこそ学ぶべきであるに、人権規定ばかり学んで何の意味があるのか。

私見によれば、そもそも、人権規定は必要ないはずである。アメリカでも憲法を制定する際、人権規定を設けるか否かで大議論が展開された。何故なら、人権規定を設けると、それ以外の人権は認められないとの勘違いが生まれかねないからである。それは完全な誤りだ。そもそも、人権規定は、原則国家が何でもできることを前提に、「国家は憲法に書いていることをしてはならない。」との規範から成り立っている。しかし、それは間違いで、原則国家は何も出来ないことを前提に、「国家は憲法に書いている事しかできない。」との規範から成り立っているべきなのだ。そう考えれば、新しい人権の論点につき、人格的利益説が誤りで、一般的自由説が正しいことが明白になる。一般的自由説こそ、「国家は憲法に書いている事しかできない。」という思想に基づいている。要するに、国家の権限の限界を画する学問が憲法学のはずなのだ。現在の憲法学は、あまりにも人権規定に囚われていないか。

そういえば、ハイエクのconstiution of libertyが「自由の条件」というタイトルで翻訳されているが、むしろ「自由の国制」とか訳したほうが良かったのかもしれない。確か島津格先生はそう訳していたような。

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