右派弁護士の備忘録

世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である。

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交戦権とは

前日,南出氏の交戦権理解を批判したが,
確かに,戦後の憲法学者の交戦権理解が,
抽象的かつ観念的なものになってしまっていることは,
事実である。
その点で,南出氏の交戦権理解は,理由がない分けではない。
例えば,アメリカ憲法の話になるが,「戦争権限(war power)」について,以下のように考えられている。

「宣戦の権限を有する以上,終戦を有する権限も,また,連邦議会に存する。第一次世界大戦の後,ヴェルサイユ条約が上院の同意を得られなかったため,ドイツとの戦争終結の方法に関して疑問を生じたが,両院の合同決議に大統領の署名を得て,正式の終戦を迎えたのであった」(註解アメリカ憲法(酒井書店,1993)66頁)。

「宣戦の権限+終戦を有する権限+統帥の権限=戦争権限=交戦権」との理解も,不可能ではない。
戦後の憲法学者が「戦争は起きない」ことを当然の前提として,戦争権限等の概念を十分に検討してこなかったから,
南出氏につけこまれるのだ。左翼学者の責任だろう。
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南出喜久治『日本国憲法無効宣言』(ビジネス社,2007)の致命的誤り

1 帝国憲法75条の指摘について

氏は,「旧無効論とはここが決定的に違う」(25頁)というタイトルをつけた上で,「私の無効論と過去の無効論を比較すると,決定的な違いは何かといえば,私の場合は帝国憲法第七五条に抵触する故に無効だと言っている点です」(30頁),「今までの無効論に七五条を補強する必要がある」(31頁),「最近になって谷口雅春先生の講演録を改めて調べてみたら,あの当時にも無効であることの根拠として,私とは表現は異にされるものの,七五条的なことをおっしゃっていることを発見しました」(29頁)等と主張している。

しかし,この主張は完全に誤っている。菅原先生,井上先生,相原先生等は,当然,この点を指摘している。南出先生は,無効論の大家の本を一冊も,1頁も読んでいないのだろうか。実に不真面目な態度ではなかろうか。以下,該当部分を引用する。

「時期の問題」-「帝国憲法七五条に,摂政時代に憲法改正を禁じたのも,(中略)ひとしく国家の状態が,正常かつ平穏でなければ,憲法の改正を,なすべきではないという,憲法法理の大原則を示したものにほかならぬ」(菅原裕『新装版 日本国憲法失効論』(国書刊行会,平成14年)31-32頁)。

「憲法変改の必須要件としての自由意思」-「例えば,帝国憲法はベルギー憲法と共に,摂政を置くの間,典憲の変更を禁じ,元のウルテンベルヒ憲法は摂政期間中になされたる改正は,その任期中に限り効力を有する旨の明文を有する。(中略)摂政を置く場合に於てすらそうである。殊に統治者の意思が全面的に欠落する「占領」中は「勿論」のことである」(井上孚麿『憲法研究』(政教研究会,昭和34年)173頁,180頁。現代仮名遣いに変更して引用),「改正の時間的制約」-「明文を挙げれば,大日本帝国憲法は,摂政期の改正を禁じ,(中略)。各国の現行法体系中最高次のものが,憲法であることはいう迄もないことであるから,これも,占領中の憲法変改の禁止を命じたものであることは明かである」(同『現憲法無効論』(日本教文出版,1975)93-94頁。現代仮名遣いに変更して引用)。

「改正の時期」-「帝国憲法が摂政を置く間は憲法の変更を許さぬのも,(中略)すべて,国家の状態が正常且安泰で,国民の意思が平穏であり,国家の統治意思が自由でなければ,憲法の改正はすべきでないという,憲法法理の根本原理を例示的に示したものに外ならない」(相原良一『憲法正統論』(展転社,平成8年)53頁)。

このように,憲法無効論の大家は,既に帝国憲法75条を指摘している。全員が指摘している。これらの著作をきちんと読んでいれば,「私の無効論と過去の無効論を比較すると,決定的な違いは何かといえば,私の場合は帝国憲法第七五条に抵触する故に無効だと言っている点です」(30頁)等とは,恥ずかしく言えないはずである。「今までの無効論に七五条を補強する必要」(31頁)など,これっぽっちも存在しない。「最近になって谷口雅春先生の講演録を改めて調べてみたら,あの当時にも無効であることの根拠として,私とは表現は異にされるものの,七五条的なことをおっしゃっていることを発見しました」(29頁)との主張など,「谷口先生の前に菅原先生,井上先生,相原先生の本を1頁でも読んだら?」とツッコミを入れたくなる。不勉強も甚だしい。

氏と比較して,小山常美氏は,大家の過去の著作を十分に読んだ上で理論を構築しており,信頼に足る(過去の著作が何であるかについては,同氏『憲法無効論とは何か』,『「日本国憲法」無効論』の参考文献を見よ。)。氏は,旧無効論を敵視しているが,そもそも旧無効論の著作を読んだ気配は窺えない。YouTube等で動画を拝見したが,あまりにも独善的で,かつ,保守派にありがちな傲慢な態度(「俺だけが正しい!お前らは全員間違ってる!」といった態度)に満ち溢れている。態度や言い方の問題は兎も角として,勉強不足は困ったものである。保守主義者が備えるべき「謙虚さ」の欠片もない。「傲慢さ」が「不勉強」を招いた典型例といえよう。


2 旧無効論の法的安定性について

氏は,旧無効論について,「今までの無効論でいえば一種の革命のようなことになり,これまでの裁判にしても法律にしても一体どうなるのかという,法的安定性の部分でかなりの批判がありました。それらの批判に対して旧無効論はひとつもまともな回答ができていない」(32-33頁)等と主張している。

しかし,この主張も完全に誤っている。菅原先生,井上先生,相原先生,いずれも,法的安定性に配慮し,現行憲法の無効が確認されるまでは,有効であると「推定」されるなどとして,過去の公法行為が無効にならないよう理論武装している(菅原103頁以下,井上・憲法研究240頁以下,331頁以下,井上・現憲法無効論295頁以下,相原158頁以下)。井上・憲法研究は,わざわざ「第三章 杞憂」(憲法研究331頁以下),「復原についての杞憂」(現憲法無効論295頁以下)という章を設けて,法的安定性が撹乱されるのではないかとの懸念を「杞憂」に過ぎないと念を押しているところである。

確かに,この「適法性の推定」理論の妥当性については,議論の余地があるだろう。しかしながら,南出氏の主張する「無効行為の転換」理論が一見して優れているとは思われない。この点,氏は,占領管理法説に対して,「憲法として無効なのに,なぜ法律として有効なのか」(31-32頁)等と批判しているが,これはブーメランとなって自分に返ってくる。すなわち,「憲法として無効なのに,なぜ講和条約として有効なのか」,と。講和条約に転換するより,占領管理法に転換するほうが,「むしろ自然」ではないだろうか。法的安定を図る手段は一つではないのであり,無効行為の転換理論が適法性の推定より優れていると判断する必然性は全くない。無効の遡及効を制限する手法は,たくさん存在する。

例えば,無効の遡及効を制限した例として,非嫡出子の相続分の規定の違憲決定が存在する。同決定は,次のように判断している。「本決定の違憲判断は,Aの相続の開始時から本決定までの間に開始された他の相続につき,本件規定を前提としてされた遺産の分割の審判その他の裁判,遺産の分割の協議その他の合意等により確定的なものとなった法律関係に影響を及ぼすものではないと解するのが相当である」(最高裁平成25年9月4日決定)。これを応用すれば,「現行憲法無効判断は,帝国憲法改正時から本判決までの間になされた国家行為につき,現行憲法を前提としてされた立法,行政,司法等の国家行為に基づき確定的なものとなった法律関係に影響を及ぼすものではないと解するのが相当である」等と考えることもできるのである。

従って,井上先生が主張したように,法的安定性云々は,「杞憂」に過ぎない。また,法的安定性を確保するための手段は複数存在するのであって,無効行為の転換理論が格別優れている訳ではない。

それにしても,「今までの無効論でいえば一種の革命のようなことになり,これまでの裁判にしても法律にしても一体どうなるのかという,法的安定性の部分でかなりの批判がありました。それらの批判に対して旧無効論はひとつもまともな回答ができていない」(32-33頁)などとは,よく言えたものだ。本当に南出氏は旧無効論の大家の本を1頁でも読んだことがあるのか,疑念は増すばかりである。


3 無効理由について

何度も引用するが,氏は,「私の無効論と過去の無効論を比較すると,決定的な違いは何かといえば,私の場合は帝国憲法第七五条に抵触する故に無効だと言っている点です」(30頁)と主張している通り,数ある無効理由の中でも,特に帝国憲法75条違反を強調している。しかし,この無効理由は,八月革命説に対する攻撃としては,実は弱い。むしろ,「自由意思の欠如」こそ,理由の第一に挙げるべきであろう。なぜなら,帝国憲法75条違反は,「改正」を無効にする力しかなく,「旧憲法の破棄,新憲法の制定」を無効にすることができないからである。これは,八月革命説がどのように出て来たのか,考えれば直ぐに分かる。

八月革命説は,憲法改正の論点の一つである,「憲法改正限界説」を当然の前提として,これを克服するためにでっち上げられた。この点,八月革命説は,「現行憲法は明治憲法の改正としては無効」であることを正面から認めた上で,「改正としては無効であるが,明治憲法の破棄・現行憲法の制定としては有効である」とする理論なのである(その上で,「改正」は「形式」に過ぎず,「実質」は「旧憲法破棄・新憲法制定」である,と主張する。)。なので,八月革命説に対して,いくら「改正としては無効である」と主張しても(帝国憲法75条違反の強調はこれに該当する。),暖簾に腕押しなのである。むしろ,「明治憲法の破棄・現行憲法の制定としても無効である」との理論を構築する必要が存在する。では,その理論は何か。これが「自由意思の欠如」論である。小山氏の該当箇所を引用する。

「無効な理由は,日本政府であれ,国民代表としての議会であれ,日本側に一貫して自由意思がほとんど存在しなかったということで尽きている。あらゆる法律行為は原則として行為主体に一定の自由意思があって初めて有効なものとなるし,独立国の憲法を作る行為ならば尚更,その国の自由意思が基本的に存在しなければならない(筆者注:意思主義)。だから,日本側の自由意思の欠如を直視すれば,細かい法的議論などするまでもなく,「日本国憲法」は,少なくとも憲法としては無効である」(小山常美『憲法無効論とは何か』(展転社,2006)120-121頁)。

憲法自律性の原則に結び付けることも可能である。この原則によれば,憲法の場合,一般の法律等と比較して,「より自由意思を大切にしなければならない(誤解をおそれずに言えば,自由意思の違反による無効の度合いは,一般の法律等に比較して,更に大きい,という事。)」。そして,この原則は見事に破られた。

「自主的な選択的受容過程であった明治憲法の制定の場合とは異なり,日本国憲法の制定は,占領管理体制の下におけるいわば強いられた「憲法革命」というべきものであった。このことは,(中略)マッカーサー草案の提示以後の憲法草案の起草過程だけでなく,憲法制定会議における審議過程においても,同様に当てはまる。したがって,現行憲法の制定過程は,そういうものとして法的な瑕疵を帯びており,しばしば引き合いに出される憲法自律性の原則(芦部信喜)は,むしろ破られたとみるのが正当な見方であろう」(大石眞『憲法講義Ⅰ(第2版)』(有斐閣,2009)54頁)。

「自由意思の欠如論」,「憲法の自律性の原則」は,「憲法の改正」だけではなく,「旧憲法の破棄・新憲法の制定」行為にも適用される。従って,八月革命説の「改正としては無効であるが,旧憲法の破棄・新憲法の制定としては有効」との言説に対して,「いや,旧憲法の破棄・新憲法の制定としても無効だ」と再批判することができる。これに対し,帝国憲法75条違反を強調しても,「だから,改正としては無効と我々も認めている」と開き直られてしまうと,対処できない。要するに,改正の無効事由をどれだけ並べても,八月革命説は痛くも痒くもないのである。

有効説には,以下のとおり(1)から(4)が存在する。この点,(1)から(3)までの理論は,全て自由意思の欠如,憲法自律性の原則で論破できる。問題は,(4)である。もっとも,(4)については,そもそも,自由意思の欠如,憲法自律性の原則違反は,極めて重大な瑕疵であって,取消事由に過ぎないとは考えられず,無効事由に該当すると考えるべきである(「取り消し得べき憲法制定行為」なるものは,なかなか観念し難いように思われる。)。そして,無効行為に法定追認は適用されない(民法ですら,そのように考える学者が多い。消極的な法定追認は認められず,積極的に新たな行為を改めてすべきと考えられている。ましてや,憲法制定行為について,無効行為の法定追認を肯定すべきではない。)。法律論において「取り消し得べき憲法制定行為」の存在を認めた上で,日本側にもある程度自由意思が存在したと事実認定をして,はじめて「検討に値する有効論」となる。もっとも,最後に何を以って法定追認事由とするかの問題は残る。

(1)憲法改正無限界説(結論:改正としては有効)
(2)八月革命説(改正としては無効であることを前提に,旧憲法の破棄・新憲法の制定として有効)
(3)主権顕現説(帝国議会の審議過程で国民主権が次第に確立した)
(4)法定追認説(本来は瑕疵ある制定行為であったが,一定の憲法規定の履行行為によって完全な効力をもつにいたった(大石前掲55頁参照))


4 交戦権について

そのほか,YouTubeの氏の動画を見ると,しばしば「交戦権を放棄している現行憲法でサンフランシスコ講和条約を締結できない」,「帝国憲法の講和大権に基づいてサンフランシスコ講和条約は締結された」等と主張している場面がある。これも無理があると思わざるを得ない。

そもそも氏の憲法解釈(現行憲法の交戦権の中には,宣戦→統帥→講和の権限が全て含まれている。)は,絶対的なものではない。例えば,次の記述を読んでほしい。

「交戦権の意味については,国家が戦いを交える権利と解する見解(広義説)と,国際法上,交戦国に認められる権利,即ち,敵国領土の積極的攻撃,船舶の臨検・拿捕(だほ)の権利や,占領地行政に関する権利等を指すとする見解(狭義説),その双方を含むとする見解(両者包含説)がある。(中略)本書の立場では,1項は一切の戦争を否定する趣旨なのであるから,国が戦争を行う権利は,既に1項によって否定されており,2項後段はその繰り返しになるからである。1項を上記のように解し,かつ2項後段に独自の意義を与えようとすれば,2項後段の交戦権の意義は,狭義説のように解さなければならない。(中略)1項で一切の戦争が放棄されているのであるから,わが国が交戦国になることはありえないのであるが,2項後段は,交戦国になった場合に認められる諸権利の否定という形で,1項の一切の戦争放棄を表現しようとしたものなのである」(井上英治『ロースクール憲法(上)』(辰巳法律研究所,2003)147頁)。

このように,交戦権の意味には,狭義説と広義説が存在するのであり,狭義説を採用すれば,氏の理論は成り立たない。また,広義説を採用しても,講和条約締結権まで含める見解は存在しない。当然だろう。平和主義者の連中にとっても,「講和条約は9条違反だ!」等と言うはずがない。自分に都合がいいからといって,わざわざスーパー広義説(講和条約締結権まで含む。)を採用する意味はないと思う(卑怯とも言えるだろう。)。

また,氏と同様に考えたとしても,つまり,「交戦権の中に講和条約締結権が含まれており,現行憲法9条2項はこれも含めて交戦権を放棄している」と考えても,「サンフランシスコ講和条約は現行憲法に違反して無効」になるだけであって,到底「帝国憲法上の講和大権に基づいて締結された」などとは言えない。「交戦権は否定されている+講和条約締結権は交戦権の中に含まれる→講和条約締結権は否定されている→それなのにサンフランシスコ講和条約が締結された」,この議論の帰結は「サンフランシスコ講和条約は憲法違反である」であって,まさか「帝国憲法は生きている」ではあるまい(「帝国憲法下なら憲法に違反しない」とは言えるであろうが)。

氏としては,「サンフランシスコ平和条約は憲法に違反せず有効である」という誰も争えない事実を根拠に,「現行憲法ではサンフランシスコ平和条約が無効になってしまうぞ!」と脅したつもりなのだろうが,「いやいや,私は交戦権の意義をそのように考えていませんから」とか,開き直って「先生のおっしゃるとおり!サンフランシスコ平和条約は,平和条約としては無効なんですよ」とか反論されると,一気に説得力を失う。この意味で,氏のこの議論は余り意味がない。

(以上)

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