右派弁護士の備忘録

世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である。

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憲法の意義

一番素晴らしい定義は、阪本昌成先生の、

「規範的意味の国制」

だ。そもそも、constiutionは、国制を意味し、その中でも、規範的意味を有するものをいう。国体と定義することも可能であるが、国体には文化的意味も含まれてくるので、相応しくないだろう。
良く、憲法というと、人権規定が論じられる。司法試験でも、論文ではほぼ人権が出題される。しかし、憲法をまなぶということは、本来日本の国制(規範的意味の)を学ぶことであり、人権が全面的に押し出されるのはおかしいと思う。
国家の意味、法の意味、憲法の意味、立憲主義の意味、法の支配の意味、主権の意味、自由の意味などこそ学ぶべきであるに、人権規定ばかり学んで何の意味があるのか。

私見によれば、そもそも、人権規定は必要ないはずである。アメリカでも憲法を制定する際、人権規定を設けるか否かで大議論が展開された。何故なら、人権規定を設けると、それ以外の人権は認められないとの勘違いが生まれかねないからである。それは完全な誤りだ。そもそも、人権規定は、原則国家が何でもできることを前提に、「国家は憲法に書いていることをしてはならない。」との規範から成り立っている。しかし、それは間違いで、原則国家は何も出来ないことを前提に、「国家は憲法に書いている事しかできない。」との規範から成り立っているべきなのだ。そう考えれば、新しい人権の論点につき、人格的利益説が誤りで、一般的自由説が正しいことが明白になる。一般的自由説こそ、「国家は憲法に書いている事しかできない。」という思想に基づいている。要するに、国家の権限の限界を画する学問が憲法学のはずなのだ。現在の憲法学は、あまりにも人権規定に囚われていないか。

そういえば、ハイエクのconstiution of libertyが「自由の条件」というタイトルで翻訳されているが、むしろ「自由の国制」とか訳したほうが良かったのかもしれない。確か島津格先生はそう訳していたような。
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