右派弁護士の備忘録

世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である。

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憲法9条擁護派を執拗に攻撃する

憲法9条擁護派の欺瞞は、覚悟を回避して美辞麗句を並べ立て、詐術的なごまかしによって世を惑わしている点にある。私は、軍事力を保有して自国を防衛するという決断であれ、軍事力を一切廃止して非暴力不服従の道を選ぶという決断であれ、覚悟を決めてその決断をするというのなら、一つの意見として尊敬したいと思う。確かに、後者の決断については、本音では「正気か?」と思っている。しかし、非暴力不服従という道のために死ぬ覚悟があるというのなら、それを嘲笑う権利を私は有していない。命を懸け自らの信念に従って行動する人間を私は軽蔑しない。

私が唾棄すべきとして嘲笑している人間は、「憲法9条を守っても、みんな幸せに暮らせる!」という頭の中がお花畑で埋め尽くされた(もしくは某国のスパイ?)国賊のことである。この種の人間は、一定の犠牲を出してでも祖国を次の世代に伝えていくという決断をするのか、一定の犠牲を出してでも非暴力不服従の道義を貫くという決断をするのか、という道徳的・哲学的な悩みをぶち壊し、「犠牲なしで、幸せになれる!」という幻想を吹聴する。全く始末に負えない。

要するに、私は、自存自衛の理想を貫くのであれ、非暴力不服従の理想を貫くのであれ、犠牲が伴うということを主張したいのである。非暴力不服従の理想を犠牲なしで実現できるなどと考えてはいけない。極端に言えば、「非暴力不服従の理想のもとに一億玉砕すべし!」という考えもあり得る。非暴力不服従を提唱する似非平和主義者にそのような覚悟はあるのか。ないのであれば、「今までどおりアメリカ様に守ってもらっていればいい」、と主張すべきである(しかし、何故かこういう平和主義者には、反米を唱えるものが多い。にもかかわらず、シナの軍備増強にはダンマリ。笑うしかない。)。

具体的な事例を考えれば、争点はよりハッキリする。拉致事件がそれである。戦争をしてでも拉致被害者を取り返すのか、それとも、拉致被害者は助けないがもし仮に自分たちが拉致されても助けに来てくれるなという決意をするのか、という問題になる。いずれにせよ、犠牲は必要である。いや、「避けられない」、といったほうが正確である。似非平和主義者は、これまでの日本は憲法9条のおかげで平和を保てたのだ、と妄言(狂言?)する。ふざけるなと言いたい。横田めぐみさんは平和状態にあるのか。横田めぐみさんは犠牲ではないのか。自分の犠牲でなければ放置するのか。これほどの反道徳は存在しない。横田めぐみさんを踏みつけながら醜い平和を享受する、これが憲法9条擁護派の真の姿である。一ミリでも良心が残っている人間なら、このようには考えないだろう。もっとも、例えば、キリストの精神を実現するため、一切暴力には関与しない、また、もし自分が誰かに攻撃されても助けないでほしい、という人間がいたとしても、私はその人間を軽蔑しないだろう。私が軽蔑するのは、犠牲を他人に押し付け、自分だけ平和を享受しようとする、醜い人間だからである。

もっと具体的に言おう。拉致被害者を助けるために自衛隊が軍事侵攻をしたとしよう。その時、北朝鮮がミサイルを発射し、それによって自分が死ぬかもしれない、と仮定しよう。私は、それも仕方ないと思う。確かに、まだ私もやりたいことがある。しかし、だからといって、横田めぐみさん(もちろん、私は、他の被害者・特定失踪者も忘れていない。)の夢や自由、幸福を無視してまで、自分の生命を確保しようとは、どうしても思えない。私は、他人に犠牲を押し付けてまで、平和を享受しようとは、どうしても思えない。それは、私が、平和より自由を尊重しているからだと思う。平和と自由を両方選択できないギリギリの場面において、私は、自由を選択したいと思う。自由のために平和を放棄したいと思う。もし仮に自分がそのために死ぬとしても。

「小さな一時の安全を買い取るために大切な自由を放棄する人間は、 自由を受けるのに値しない」(ベンジャミン・フランクリン)。
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